島崎藤村の小諸時代

島崎藤村小諸時代
1899年(明治32年)小諸義塾の教師として長野県小諸市に赴任し、
以後6年過ごす(小諸時代)。
泰冬と結婚し、翌年には長女・みどりが生まれた。
この頃から現実問題に対する関心が高まったため、
散文へと創作法を転回する。
小諸を中心とした千曲川一帯を見事に描写した写生文「千曲川のスケッチ」
を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。
1905年(明治38年)、小諸義塾を辞し上京、
翌年「緑陰叢書」第1編として『破壊』を自費出版。
すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。
ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、
後に『家』で描かれることになる。
『落梅集』に納められている国民歌謡「朝」(作曲:小田進吾)、
1925年(大正14年)に弘田龍太郎によって作曲された歌曲
「千曲川旅情の歌」もこの詩集からのものである。
source: wikipedia

【水明楼】
木村熊二は明治26年11月より同39年3月まで小諸義塾塾長として地方の 青年教育に尽くし、
また果樹栽培・農産加工等を奨励し、産業に貢献された人である。
その先生が、千曲川付近の自然を愛され眺めのよいこの地を選び、
明治31年5月士族 屋敷にある書斎を移築し、
「水明楼」と名づけたのである。
藤村の千曲川のスケッチには
「水明楼へ来るたびに私は先生の好く整理した書斎を見るのを楽しみにする。
そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄によりそいながら
ほしいままに賞することができる」
とつづられている。
当時の中棚鉱泉の泉質分析の記録も木村熊二が始めたものである。
手に傷のある子供が中棚付近の湧き水で遊んでいたところ、
その治りが速い事に気付いた木村は、
自身が腺病質(虚弱体質)であった為、温泉湯治効用を求めました。
その後、明治31年に開湯し、近在の人々の社交場として
中棚鉱泉は営業を開始しました。
島崎藤村は明治32年に英語と国語の教師として小諸義塾に赴任し、
足掛け7年にわたり水明楼、そして中棚荘へ足繁く通いました。


